新潟県内には映画祭や自主上映団体が各地に知る限り散らばってあります。 行政等が大きくバックアップしているもの、 映画ファンが立ち上げに大きく関ったもの。 成り立ちや主体は違えど、 共通してるのは活動を支えているのはボランティアのメンバーではないかと。 当会でいえばもう発足20年にもなるものの、 今も知名度という点は僅かで紹介に回っても怪訝に思われることは数限りなく、 もはや慣れたとはいえ深い葛藤をいつも抱えてます。 おそらく葛藤を抱えるのはどこでもそうだと思いますが、 幸い当会で言えば事務所でメンバーとの会話の中で収まっていきます。 それに応援していただく方々の顔を思い浮かべれば。 それで県内の上映活動をしてる方々が一同に集まって、 日ごろの活動について話し合う場があれば活動も一層心強くなるのではと、 古町の幸子さんを見上げながら思ってました。
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2010.02.28
| Trackback(0) | ごあいさつ
今年の「にいがた国際映画祭」のクロージング上映は半世紀前のフランス映画「赤と黒」。 上映前に実行委員長が舞台挨拶としてこれまでの経過とこれからの映画祭を話していました。 ちょっとシビアなこともユーモアもまぶして饒舌に話すことに実行委員長の人柄を感じました。 しかし昨今の映画俳優からは失せてしまった気品、 例え俗を演じても拭いきれない気品があったジェラール・フィリップの美しさ。 そして三時間にも渡る本作の観賞のためにご年配の方を中心に埋まった客席、 これは当映画祭ではマネできないことを痛感しました。
2010.02.27
| Trackback(0) | 当会の活動報告
(C)2009『Dear Doctor』製作委員会 「ディア・ドクター」の映画賞・受賞をこちらより転載します。http://deardoctor.channel.yahoo.co.jp/index.php?itemid=110 作品賞とともに相米慎二監督作の常連だった鶴瓶師匠が 意外にも本作が映画初主演となり、 白と黒の間で“ゆれる”僻地の医者を演じて大成功! 主演男優賞をほぼ総ナメにする勢いです。 この後は東京スポーツ映画大賞授賞式が2月28日に、 日本アカデミー賞の授賞式と採油臭症の発表が3月5日に行われます。 ============================== 2009年度国内映画賞 受賞一覧(開催順・敬称略) <第33回山路ふみ子映画賞> ■映画賞(西川美和) ■映画功労賞(八千草 薫) <第1回TAMA映画賞> ■最優秀作品賞(西川美和監督&キャスト一同) ■特別賞(八千草 薫) <SARVH賞2009> ■安田匡裕(『ディア・ドクター』) <第34回報知映画賞> ■監督賞(西川美和) ■助演男優賞(瑛太) ■助演女優賞(八千草 薫) <第22回日刊スポーツ映画大賞> ■作品賞(『ディア・ドクター』) ■監督賞(西川美和) ■主演男優賞(笑福亭鶴瓶) ■助演女優賞(余 貴美子) <大阪アジアン映画祭 おおさかシネマフェスティバル2010> ■主演男優賞(笑福亭鶴瓶) <第31回ヨコハマ映画祭> ■作品賞(『ディア・ドクター』) ■脚本賞(西川美和) ■撮影賞(柳島克己) ■助演男優賞(松重 豊) ■特別大賞(八千草 薫) <第83回キネマ旬報ベスト・テン> ■日本映画ベスト・テン第1位(『ディア・ドクター』) ■日本映画脚本賞(西川美和) ■主演男優賞(笑福亭鶴瓶) ■読者選出日本映画監督賞(西川美和) <シネマ夢倶楽部 第7回ベストシネマ賞> ■ベストシネマ第2位(『ディア・ドクター』) <第64回毎日映画コンクール> ■女優助演賞(八千草 薫) <2009年度日本映画ペンクラブ賞> ■日本映画部門ベスト1(『ディア・ドクター』) <第52回ブルーリボン賞> ■監督賞(西川美和) ■主演男優賞(笑福亭鶴瓶) ■助演男優賞(瑛太) <第19回東京スポーツ映画大賞> ■監督賞(西川美和) ■主演男優賞(笑福亭鶴瓶) <第33回日本アカデミー賞> ■優秀作品賞(『ディア・ドクター』) ■優秀監督賞(西川美和) ■優秀脚本賞(西川美和) ■優秀撮影賞(柳島克己) ■優秀照明賞(尾下栄治) ■優秀録音賞(白取貢/加藤大和) ■優秀編集賞(宮島竜治) ■優秀主演男優賞(笑福亭鶴瓶) ■優秀助演男優賞(瑛太) ■優秀助演女優賞(余 貴美子) <第12回日本シナリオ作家協会 菊島隆三賞> ■西川美和(『ディア・ドクター』)
2010.02.26
| Trackback(0) | 上映会
小林茂監督よりメールが届きましたのでご紹介します。 「チョコラ!」と共に今度は京都へ赴きます。 ====================================== 寒中、みなさまにはますますご清栄のこととお慶び申し上げます。 このたび、立命館大学の公開講座で映画「チョコラ!」の上映と対談が企画されまして、私も出席いたします。 広い大講義室で客席も多く、どなたも自由にご参加いただけます。 参加費800円)未見の方には、この機会にご高覧いただけましたら、幸いです。 詳細は「チョコラ!」HPの公開情報をごらんください。http://www.chokora.jp/ 公開講座 シネマで学ぶ「人間の社会の現在」シリーズ4生きがたさのなかで―子どもと希望――映画「チョコラ!」上映と対談 ―― 2010年2月27日(土) 13:00開場 13:30 開演(16:30終了予定) 会場: 立命館大学 朱雀キャンパス 5F 大講義室 〒604-8520 京都市中京区西ノ京朱雀町1出演: 小林茂(監督)林達雄(立命館大学特別招聘教授・アフリカ日本協議会代表) 問合せ: 立命館大学人間科学研究所事務局Tel: 075-465-8358
2010.02.25
| Trackback(0) | お知らせ
*スイス在住の映画「ひめゆり」上映広報担当者からメールが届きましたので転送します。 「ひめゆり」の柴田昌平監督がNHKの番組を新たに手掛けたようです。 ===================================== 今年は厳しい寒さが続き、雪が多かったスイス。でも2月も下旬となると日が長くなり、春が一歩一歩近づいているのを感じます。 いかがお過ごしですか。今日は長編ドキュメンタリー映画『ひめゆり』の監督、プロダクション・エイシア柴田昌平がデイレクター・編集を担当した、2月28日放映予定、NHK教育テレビ、日曜美術館の番組案内を差し上げます。知人・友人の方にもお知らせいただければ幸いです。 2月28日 (日) 9時―10時 NHK教育テレビ 日曜美術館 欧州を丸ごと持って来い! 国立西洋美術館誕生秘話 http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0228/index.html 厳寒の1月初旬にイギリスで10日間撮影ロケが行われました。その様子を2日見学する機会に恵まれたのですが、デイレクター、カメラマン、音声・照明、それぞれのプロフェッショナルの仕事をまのあたりにでき、貴重な体験でした。松方幸次郎、フランク・ブラングイン、二人の魅力あふれる人物像に迫る番組になっていると確信しています。 番組紹介HPの3枚目ロンドン、ハマースミスのブラングィンのアトリエTemple Lodgeは、現在はB&B。右手の大きな窓の部分は、ヒップでなかなか美味しいベジタリアンレストラン(http://www.thegate.tv/gate2008/web/default.asp )です。 2月23日(火) から5月30日(日)まで開催される、国立西洋美術館50周年記念事業、フランク・ブラングィン Exhibition of Frank Brangwyn の展示ビデオにもこのイギリスロケの映像がつかわれています。http://www.fb2010.jp/main/
2010.02.25
| Trackback(0) | お知らせ
「初めて人のために何かしようと思った」 当会事務所に魚沼や新潟で撮影した「あぜみちジャンピン!」の西川文恵監督が大雪の夜に挨拶に来て下さいました。 映画は聾唖の少女が全身全霊をかけて仲間達とヒップホップダンスに打ち込む姿を描いた爽快な青春映画です。 田園地帯とともに汗と涙を流してヒップホップに乱舞する女の子達が目に眩しい一作。 事務所に来た西川監督によれば一昨年の夏に魚沼を中心に撮影、ようやく完成しぜひ新潟の方から盛り上げていきたいとのこと。 その間に各国の映画祭に応募し、昨年はシカゴ国際児童映画祭で上映され、今後は韓国、インドネシア、そして近々ニューヨークの映画祭に参加するため渡米するそうです。 それで来月に初開催される“新潟しゅわる映画祭”での上映が日本初上映になるので、 その打ち合わせと宣伝に来県、当会にも来て下さいました。 やはり五藤利弘監督を想起したので傍から見た「モノクロームの少女」の活動と展開を中心こちらはお話ししました。 参考になるかならないかはともかくわざわざ東京から当会に来て下さったのがとても嬉しかったです。 映画の道を志した経緯を聞くと大学生の時に表現することに目覚めて、あこがれの監督デレク・ジャーマンがいたロンドンへ留学、帰国後に何本か映画を手掛けたものの今回の「あぜみちジャンピン!」が自分にとっての本当の第一作と。 デレク・ジャーマンの名や撮影をした魚沼の風景写真を手にして「タルコフスキーの映画のようだからここを選んだ」と語るほどのシネフィルが「あぜみちジャンピン!」の撮影にのめり込んで演じてる少女達を目にして「初めて人のために何かしようと思った」と語り、少女達が一生懸命演じた姿を多くの人に観てもらおうと奮闘中です。 ちなみに当会メンバーで夢はハリウッドの監督という大学生は今後の参考にと、 あれやこれやと質問をしてメルアドを交換していました。 ただちょっと口数少なかったので後で聞いたら「緊張をしていた」とのこと。 おそらく西川監督は自身の経験から相談にはきちんとアドバイスしてくれる方だと思うので、 遠慮せずどんどん進路相談をするべきではと。せっかくのいい機会になるので。 せっかくだから長岡駅前をご案内しようとしたものの時間切れで戦災資料館ぐらいしかご案内できませんでしたが、 長岡を気に入っていただいたようなのでまたの機にご紹介できたらと。 先日の上映企画室では監督へお土産に“イタリアン”を渡したことをメンバーに話すと 「“イタリアン”は新潟県人はともかく、東京の人の中には合わない人もいるのではないか」、 という話になり確かにお口に合ったか気になりました。 「あぜみちジャンピン!」公式HPhttp://www.aze-michi.com/ ↓当会に来た監督の感想http://ameblo.jp/aze-michi-jumping/entry-10463304638.html 新潟しゅわる映画祭 3月6日 敬和学園大学 3月14日 新潟ユニゾンプラザ 公式HP http://syuwaruhands.blog12.fc2.com/
2010.02.24
| Trackback(0) | 当会ご案内
昨晩の上映企画室は「ディア・ドクター」上映会の準備として、 DM作成と宛名書き、ポスター下ビラ貼り、チケット組の追加、報道各社に上映会依頼書制作を手分けして。 その合間に送別会の感想、先日挨拶に来て下さった映画人の話、五藤利弘監督のインタビューが大きく掲載された新潟日報を廻し読みしてました。 そして見事にベルリン国際映画祭で主演女優賞を受賞した寺島しのぶさんの話題から、昨年「キャタピラー」にエキストラ出演した時の現場の様子を話してました。 思い出せばあの時、ダイスケ君は若松監督に進路相談を持ちかけてただけに、この度のスリランカ行きも少なからず影響があったのかも。http://tsukurukai.blog103.fc2.com/blog-entry-442.html 若松監督はじめ寺島さん、スタッフ、キャストの皆様、おめでとうございます。 チェ・ゲバラを信望するダイスケ君にはぜひ映画でかの地で革命を、 そしてスリランカと日本のかけはしになってもらえたら。 件名はTSUNTAさんの名曲のタイトルから。 ようやく上映会という目標が出来たため事務所は寒さ和らぎ明るくなってきた、と。 課題はたくさんありますが。
2010.02.23
| Trackback(0) | 当会の活動報告
4月3日の「ディア・ドクター」上映会会場の長岡市立劇場は現在改装中です。 新装した暁にはエレベーターが設置されるなど、見違えるほど変貌するようです。 これまで正面玄関からの長い階段を上るのは足腰の弱い方には酷に映りましたが、 これからは安心してロビーまで辿りつけるようです。 こちらも準備として結構な荷物を抱えてあの階段を上っていましたが、 これで少しは楽になると期待も。 可能なら重いプリントを運ぶ映写室までエレベーターが取りつけられてることを祈りますが。 いづれにせよ「ディア・ドクター」上映会が栄誉ある新装第一弾イベントになるかもしれません。 というわけで長岡市立劇場では前売券の発売はしていないので、 現在、長岡駅周辺は駅の本屋さん文信堂や大和長岡店。 お車の方は信濃川を渡って駐車場のあるジャスコやリリックホールまですみませんが、 お買い求め願います。
2010.02.22
| Trackback(0) | 当会の活動報告
スリランカへ俳優になるため旅立つダイスケ君の送別会を開きました。 明るく屈託のないキャラで当会随一の人気者だけに、先日の新年会よりも参加者が多かった事態となりました。 会場のモニターでまず監督作「Black White Red」を皆さんで観賞。 上映終了後は拍手が起きたもののダイスケ君は顔を真っ赤にし、その後は各々で映画の感想を述べてながら思い出話に花が咲きました。 恩師である造形大のビューラ先生が祝辞を述べて、参加者一同からの記念品と寄せ書き、そして記憶にある限りのダイスケ君が当会で話した映画監督から届いたメッセージを渡しました。 長野から来たダイスケ君は長岡で当会も含めて得難い財産を手にしたのではと。 途中、帰省先の台湾から帰国したばかりの台湾出身メンバーの旧正月報告も挟み、 最後のダイスケ君の挨拶は主演作で凱旋上映を宣言、その時はぜひ自腹で来岡してくれないかと望みました。 宴が終わった後も誰もが名残惜しそうに離れがたく握手を求めておりました。 健闘を何度も祈ります。 あと宴のさなかに意志を継いだ仲間が映写技師見習いを希望しました。 当会にとって朗報です。
2010.02.21
| Trackback(0) | 当会の活動報告
(C)2009『Dear Doctor』製作委員会 今年度の映画賞を総なめにする勢いの「ディア・ドクター」。 多くの人に観賞いただけたらと今回も目の不自由な方のために長岡音声アシストの会のご協力をいただき音声アシストを用意いたします。 14時10分の回になりますが、ご希望の方は事前にこちらまでご連絡ください。 また3回とも日本語字幕付きのプリントで上映いたします。 耳の不自由な方にも足を運んでいただき観賞をいただけましたら。 ご紹介をお願いいたします。
2010.02.20
| Trackback(0) | 上映会
今晩のミーティングはようやく決まった「ディア・ドクター」上映会のチケット制作を中心に行っていました。 明日にでも行ける範囲のプレイガイドに置きに参りたいと思います。 プレイガイドにチケットを置き次第、このブログのトップに載せたいと思います。 そして東京から映画人がご挨拶に事務所にいらして下さいました。 この件はまたの機会に。
2010.02.19
| Trackback(0) | 当会ご案内
小林:さて、あっという間に時が過ぎるのですけど、ここで会場の皆さんにご質問を受ける時間があるということなので、ご質問のある方、挙手をいただいてどうぞ。 そちらの白い洋装のご婦人よろしいですか。マイクが行きますので。 女性:あのう、先回初めて台湾へ一度、旅行へ行ってとても台湾に興味というか関心を持ったのですが、日本の国から戦争に引っ張られて日本はそれに対して補償とか遺族補償とかしてるのでしょうか? 酒井:してないです。していません。今回映画に出て下さっている蕭錦文さんは4年間ビルマの戦線で戦ったのですが、1銭も日本政府から補償出てないですね。それは他の人たちも全く同じです。1980年代に台湾の元日本兵の方が日本を相手取って訴訟を起こしました。日本人と同じような補償をして下さいって訴訟を起こしたのですけども、その判決というのは「もうすでにあなたたちは日本国籍でないので我々日本が補償する範疇ではありません」っていうことで退けたんですね。ただ戦時中に戦場で亡くなった方とそれからちょっとどの程度の怪我かわからないですけども、重症を負った方に対しては一律200万円という金額を80年代にお支払いしているということですね。蕭さんのように元気でたまたま元気で戻られた方に関しては何の補償もされていません。 小林:よろしいですか。はいじゃあそちらの方。 男性:ちょっと答えづらい質問かもしれませんけども、NHKのテレビで似たようなといっては失礼ですけども番組がありましたけども、あの捉え方と酒井監督の考え方はどんな情況で、、、 小林:NHKの番組は植民地のそういう立場でありましょうかね。 男性:映画というか番組の作り方としてですね。 酒井:はい。ご覧になってない方のために補足しますと、今年(2009年)の4月にNHKが『ジャパンデビュー』というシリーズの中で「アジアの“一等国”」という第一回目だったんですけれども、日本が植民地を初めて持った、それで列強に肩を並べるようになったていう、その当時を振り返りましょうという番組を作ったのですけれども、その番組は植民地当時功罪いろいろある中の罪、負の面に光を当てて作った番組だったと思います。その中で今回出て来て下さっているような日本語世代のおじいちゃん、おばあちゃんも出て来られるんですけども、それを見て私が一番最初に思ったのはこの番組を作ったディレクターは取材を受けて下さった人たちにきちんと番組、こういうものを作りましたっていう報告が出来るのかなっていう疑問を持ったんですね。 それはなぜかと言いますと、この世代というのは本当にいろんな大変な歴史を歩んで来られてるいわけなんですが、80歳を超えて昔の良かったことも悪かったことも、だから日本時代の良かったことも悪かったこともきちんとお話しして下さるんですね。NHKの取材に対してもおそらく皆さんそうだったと思うんです。日本時代の良かったこと、懐かしいことも、日本時代嫌だった、こんなことがあったっていう悪かったことも全部お話しになったと思うんです。そういう話の中で悪かったことを言ってる部分だけを抜き取って編集をしたであろう、というふうに私は受け取ったんです。だから本当に取材を受けて下さった人たちに対してきちんと誠意ある番組作りができているのかなっていう疑問を持ちました。 小林:最後の質問で一番後ろで手を挙げてらっしゃる方。なんかすみませんね。総理大臣就任記者会見みたいに、最後です!って、申し訳ありませんが。 男性:台湾でもこの映画は上映されたのか?ということと出演者はこれを見てどんな感想を持たれたのか聞かせてください。 酒井:昨年の春にこの映画が完成しまして、昨年の7月に出演して下さった方たち、それからご家族とお友たちをお招きして台北で上映会を開きました。一般の方にはまだ台湾ではご覧いただいてないのですけれど、皆さん仰ったのは、出演して下さった宋定國さんと蕭錦文さんと陳清香さん、のお三方だったんですけども、「作ってくれてありがとう」という言葉をかけて下さって、それで私は本当に日本の方々にこれで届けられるなという勇気をいただいたんです。 それと同時に、「日本の人にはもちろんなんだけども台湾の若い人たちにぜひ観せてほしい」ということを言われたんですね。それは日本でも世代間のギャップってすごくいろいろあると思うんですけども、台湾は歴史的な経緯も含めて日本以上に世代間のギャップが大きい国でして、この日本語世代の人たちっていうのは、自分たちのことを若い人たちに充分理解されていないっていう気持ちをお持ちなんですね。なのでこれから私に残されている課題は、台湾で台湾の若い人たちにこの映画を観ていただくことじゃないかっていうふうに思ってるんです。台北なんかでよくあるのはおじいちゃん、おばあちゃんは日本語か台湾語しか話せない、孫は北京語しか話せないということで共通の言語を同じ家族が持ってないっていうケースが結構あるんですね。それでおじいちゃん、おばあちゃんは戦後一生懸命北京語を自分なりに勉強をするんですけども、5割6割くらいしかわからないってことを仰っていて、そういう本当に日本ではちょっと考えられないようなコミュニケーションの行き渡らないってことがあることも事実です。 小林:はい。どうもいろいろ長い時間ありがとうございました。今日は恩師に対するいろいろな気持ち、宋さんのお話ありましたけども、私の高校時代の恩師も今日来てくれております。どうも先生ありがとうございました。 酒井:ありがとうございます。 小林:それからいつも映画作りを応援してくれているうちのお寺のご住職も来て下さりました。ありがとうございます。 酒井:どうもありがとうございます。 小林:それから「阿賀に生きる」を一緒に作りました旗野秀人さん、わざわざすみません。遠路、安田から、 酒井:ありがとうございます。 小林:今日は二回目を僕見せていただいたんですが、改めてこの映画の良さをもう一回再確認したような気がします。酒井監督にはこれが監督第一作だと聞いておりますけども、どうも三部作ぐらいにした方がいいんじゃないかというのが私の感想です。 それから今日の日程を申しあげますと、17時これから「シリアの花嫁」という大変これも優れた映画です。それから19時からは私がもう1回登場します。23,4歳ですかね、私が初めて映画の助監督として参加した作品を上映します。今からもう30年くらい前、恩師・柳澤寿男監督の地域福祉をテーマにした「そっちやない、こっちや」という映画です。愛知県知多市を舞台にした知的障がいのある人々の映画なんですけども、面白いのでお時間にある方はぜひ続けてご覧下さい。酒井監督は今日長岡にお泊りですのでロビーの方でお話しいただけることは可能でございます。この辺で失礼しますが、どうも皆様ありがとうごあいました。 酒井:ありがとうございました。 第14回長岡アジア映画祭 2009年9月17日 「台湾人生」上映後 酒井充子監督×小林茂監督対談 「台湾人生」公式HP http://www.taiwan-jinsei.com/
2010.02.18
| Trackback(0) | 長岡アジア映画祭
小林:そうですね。日本の場合、たとえば沖縄では言葉も制限されて琉球人ではなくて「日本人」になるために戦争に加担していくという状況が見られますけども、それがいわゆる台湾でも、もちろんサハリンでもそうですけど見られるわけですね。その時に陳清香さんは、人生を「解けない数学のようだ」と言った方ですが、とても僕、大好きな気丈な女性ですけどね、それほどの教育だったということですね。 それからいわゆる高砂族と呼ばれていた少数民族のパイワン族出身のタリグさん、まぁすっごいカッコイイですね。あの獣の帽子を被っていて最後に涙を流しながら言いますね。つまり「みんな知ってるんだ。私たちは日本のそういうことの中で戦争に行ったけれども、自分はあくまでも原住民だということを忘れたことはない」と、あれは本音だと思うんですけれども、つまりそうしないと台湾を守れなかったというふうなことも含めてですね。彼の場合は原住民であり、台湾人であり日本人であるという三つのアイディンティティがあるわけなんですね。 そういう複雑さも出てきましたけども、この中で酒井監督はこの映画を撮ってみて、「やはり日本人であることを一番考えていた」というふうに仰ってる記事があったんですけども、その辺についてちょっとお話しいただいてもいいですか? 酒井:はい、そうですね。楊足妹(ヤン・ツィメー)さんというお茶摘みをしているおばあちゃんは、、、 小林:あの人もいいねえ。 酒井:またちょっと後で彼女についてお話しさせていただきたいと思うんですけども、彼女を除く4人の方は特にそうなんですけれども、とにかく日本時代においては自分たちは日本人だと思って生きてきたってということをずっと仰るんですね。ずっと取材をしていて思ったのは、彼らはやっぱり自分たちが日本人だということを意識しなければ日本人としていられなかった部分があったんじゃないか、ということをすごく思ったんです。私は生まれてこの方、日本でずっと暮らして日本語を普通に話して日本人の両親の元で育ってという環境の中で、自分が日本人であることを意識しなければならない場面というのが実は無かったんですね。今回初めてこの台湾の日本語世代の人たちに出会ってお話しを聞いていくうちに、自分が日本人であることが一体どういうことなんだろうということをすごく考えさせられました。 あとはやっぱり今、私たちが暮らしている日本という国。特に戦後の日本は、戦争で負けたことによっていろんなものを切り捨てたわけなんですけども、その中に台湾の日本語世代の「捨てられた」っていうことが象徴されることがあるわけなんですが、その二つですね。 自分が日本人であるっていうことと、今自分が暮らしている日本というここは一体なんなんだろうということ。実は「解けない数学」という言葉は私もそういうことを考えてグジャグジャになった気持ちも込めた「解けない数学」なんです。 小林:うーん、そうですね。この映画の冒頭が小学校の同級会で、年配の方々がみな達者な日本語を喋っていました。「日本語はプロペラ(ぺらぺら)ですよ」(笑)という言葉もありましたけど、まずそこにびっくりしますよね。そういうのが実は劇映画では撮られていたと思うんですけども、今回あらためてドキュメンタリー映画でこういう形になってみると、その衝撃はやっぱり日本を駆け巡って東京では大ロングランのロードショーになっているわけなんですが。 酒井:ありがとうございます。 小林:それにしてもねえ、この出てくる一人一人が魅力的ですよね。二・ニ八の記念館で案内係りをやっている蕭錦文(ショウ・キンブン)さん、最後にやっぱり泣きますね、殺された弟のこととか。そうですね、やっぱり酒井監督とスタッフが取材を通して彼との関係が深まったと思うのですが、蕭さんが最後に「あなたたちに言ってるわけじゃないんだけども、日本政府には言いたい」とかね。そんな形で言っていますけども、その辺の距離感といいますかね、それがやはり酒井監督の今日の映画の最もコアな部分じゃないかと思うのですが、そこの部分についてはどんなことを意識しましたか? 酒井:そうですね。あの終始お話を伺うという、そこの基本姿勢を忘れないようにということを心がけて、皆さんお年寄りなのでやっぱり丁寧に聞いていかないと。言葉はやっぱり出にくかったりするんですね。なので何度も何度も同じことを聞いて語っていただいて、いよいよ最後に、じゃぁちょっとカメラを廻してみましょうか、その前にもう1回また同じようなことをお聞きしてもいいですかって、話していただいたんです。 蕭錦文さんという方、元日本兵の方なんですけども、総統府、昔の日本の総統府を案内されている時はどちらかというとやっぱり自分が元日本兵である、もちろんそうなんですよ、日本兵であったことをすごく誇りに思ってらっしゃって、かつ大東亜戦争というふうに彼は言うのですけれども、「大東亜戦争はアジアの国々にとって必要だった」ってことを仰るんですね。だから私なんかは最初に聞いた時はちょっとビックリするような、たとえば「どうして日本が戦争したのかわかってるかい? 列強に結局追いつめられてどうしようもなく戦争に陥ってしまったんだ」っていうようなことを仰って、日本は仕方なく戦争に陥ってしまったんだけれども、その大東亜共栄圏のためにということで僕たちは戦ったんだよってことを仰って、決して日本政府を非難する言葉っていうのは聞けなかったんですよね。 だけどずーっと話を聞いていった中で、最後に出てくるような、「あなたたち日本人に対しては親しみを覚えるけども日本政府に対しては納得ができない」っていう言葉を、本当に最後の最後に聞かせてくれた言葉が出てきたんだと思うんですけども、それは私が日本人であり、日本語で尋ね、日本語で答えてもらうっていう作業の中で出てきた言葉じゃないかと思うんですね。 小林:その中でやはり蕭さんに代表されますけども、日本政府から一言「すまなかった」といって欲しいだけなんだっていうふうにね。日本はそのことをどこに対しても何もしてないゆえに、戦後60年以上経ってもまだ戦争が終わってないということでしょうねえ。一方では小松原先生を非常に慕っている宋さんが死の病床にまでお見舞いに出かけて看取った。その時に小松原先生が「宋君もういいよ、もういいよ」というふうに言ったということを、宋さんは二回繰り返して語っていますね。 酒井:はい。 小林:その時に、この映画全体を眺めて見た時に、何かその国家と国家というものの中に翻弄された人たちが描かれているわけですけども、やはり一人一人を見れば国境を超え民族を超え、そういう心の交流があったということをまた示していると思うんですね。だから我々はちょっと回答ふうに言うのも嫌なんですけど、それぞれの国があって、それぞれの政府が代表しているような形になって、マスコミがそれをフォローしている、解説していることなんですけれども、実に台湾のことは何も知らないし、朝鮮や中国のことはまだまだ知らないのだろうと思いますね。 だから本当に大事なのはこんなふうに戦争とか植民地という考え、そういう時代ではなくお互いがいろいろ行き来してですね、知り合っていくというそういうことなんだろうな、とちょっと思ったんですね。とにかく最初に出てくる楊さんというお茶摘みをね、あの人なんで出てくるのかといつもずっと思っていたわけ。でもいつも出て来ると働いているのね、それで「いつも働いていますよ」と彼女は言うわけだよね。そこが僕、すごく良かったと思うしね。まあお転婆だった陳さんねぇ、「ホントにもう靖国おおいに首相は行ってほしい」とはね、なんかこう日本の持っているアイディンティティーの裏の裏をね、彼らの方がギューッと握ってるようなそんな感じがしますね。だから裏返しですよね。この映画を観るというのはね。 酒井:そうですね、なので本当に私は今回の台湾のお年寄りに向かい合ったことによって初めて日本を考えた、考えさせられたという体験を同時にしましたね。さっきちょっと楊さんのお話が出たんですけども、私は実は今回、茶摘みをしている楊おばさんに出会った時、彼女が一番最後に出会ってるわけなんですけども、彼女に出会って初めて、「あぁ、これで映画が作れる」って感じたんです。彼女は本当に雄弁に語るわけでもないし、歴史に翻弄された人生を送ってるわけでもないんですね。もちろんご覧になった皆さん、おわかりだと思うんですけども彼女は日本時代であろうが、国民党時代であろうが、時代に関係なくずっとあの場所で台湾の地に向かって、日本時代はコーヒー農場で戦後は茶摘みという仕事で、ずっとあの土地に向かって働いてきた方なんですね。彼女のこんがり日焼けした笑顔を見た時に、「ああこの人が台湾の大地だ」っていうふうに私には思えて、、、 小林:なるほど。 酒井:そうなんです。彼女がいてくれたから他のおじいちゃん、おばあちゃんたちが語る言葉というのがさらに生きてくるんじゃないか、だからたぶん、楊さんがいた中で4人の方々が自分たちの思いを語るっていう構成が初めて出来たっていうふうに、、、 小林:う~ん、そうか、やっぱりそういうことだったんだな、ねえ。 酒井:ちょっと編集狙ったんです、すみません。 小林:いやいや。「働いている」しか言わないのね彼女はね。 酒井:今回実は日本語でしか私は取材をしないと決めたんですね。これはある意味傲慢なところでもあるんですけれども、通訳をつけなかったんです。楊おばさんは元々ハッカの、ハッカというのはお客さんの客に家と書きますが、客家(はっか)人という中国の漢民族系の中でもまたちょっと特殊な人たちなんですけども、その客家の人で客家語なんですね、普段は。もしかすると客家語の通訳を連れて行っていろんなことを聞けば、実はすごくいろんなことを語って下さったかもしれないんですけども、日本語を媒介にして取材をしていくっていう中においては彼女とのコミュニケーションはあのぐらいになって、ただやっぱり彼女が働いている姿に、いろんなものが込められてると思ったので、彼女の場合は言葉ではなくその茶畑で働いてる姿を皆さんにみていただければなあと思いました。 小林:そうですね。椰子の実があり下に茶畑が広がっている。本当に大地でしたね。 (つづく) 第14回長岡アジア映画祭 2009年9月17日 「台湾人生」上映後 酒井充子監督×小林茂監督対談 「台湾人生」公式HP http://www.taiwan-jinsei.com/
2010.02.17
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小林:お忙しい中、おいでいただきありがとうございます。歴史に詳しい方もいらっしゃるかと思いますが、台湾はなかなか複雑な歴史を経ていますね。簡単にご紹介いただいてよろしいでしょうか。 酒井:はい。 小林:日清戦争後、1895年ですか。 酒井:おそらく皆さん、中学・高校の社会科の歴史の教科書の中で、1895年、下関条約を清の国の李鴻章と日本の伊藤博文が下関条約を結んで、その時に清の国から日本に台湾と澎湖諸島が割譲されたっていうふうに記述が出ていたと思います。少しその前のことをお伝えしますと、清の国の領土ということで台湾があったんですけれども、当時は原住民の人たち、それぞれの部族がぞれぞれの言葉を話していました。大陸から渡って来た漢民族系のいわゆる台湾人は、福建省の南の方から伝わってきた閩南(みんなん)語という、今は台湾語というふうに言うんですけども、そういう言葉を喋っていて、みんなそれぞれ別々の生活をしていました。一応、清国という統治が行われて、まぁ統治といっても統一した何か政治は行われてなかったんですけども、それで日清戦争が起こって下関条約を結んだ時に、清国は台湾を重視していなかったこともあって、日本に対して台湾を割譲したんですね。 その後、日本が51年間台湾を統治したわけです。日本が初めて列強に肩を並べて、植民地を持つという体験をしたということがありまして、インフラを整備したりですとか、上下水道を完備したり、鉄道を通したりということもありました。あと徹底的な日本語教育を行う中で、最終的には天皇の子であるという教育がなされました。当時の戦争の時代には日本でも天皇のためにという教育がされたと思うんですけれども、台湾も全く同じで、天皇の子であるという前提で日本語教育を行っていたわけなんですね。 この映画に出てきた人たちの世代は日本的な精神を徹底的に注入されています。日本時代が終わって、やがて蒋介石の国民党が入ってくることになるのですが、当時、台湾の人たちは日本が出ていくことを本当に心から喜んだそうです。ただ、その後にやってきた国民党のやったことがあまりにもひどかったということがあって、蒋介石が台湾に来るんだったら、まだ日本時代の方が良かったという意味もあって、日本時代をすごく懐かしむという気持ちが強くなったんだと思います。 小林:1945年に台湾は日本から解放されるわけですよね。その後、毛沢東の中国共産党に敗れた蒋介石が大陸から台湾へ入ってくる。そして映画の中に出て来ましたけれども、ある煙草屋の方を、あれは殺害ですかね。 酒井:そうですね。闇タバコを売っていた女性を取締官がきつく詰問しているところに、なんだなんだと、わらわらと人が集まってきて、国民党の取締官が群衆に向けて威嚇発砲をしたら、ある一人の青年に弾が当たって亡くなったということなんですね。その事件がきっかけになったわけなんです。それが1947年、戦争が終わって2年後なんですけれども。 小林:それが二・ニ八事件ですね。数万人を処刑したといわれる白色テロの時代。 酒井:はい。そのきっかけになった事件ですね。 小林:その後、国民党が一党独裁、軍事独裁的な政権を1987年ぐらいまでずっとやるわけなんで、日本はその間、中国と1972年に国交回復をして、まぁ台湾を認めないという立場になったわけなんですよね。 酒井:あのう、誤解があるんですけど、日本政府の公式な見解としては台湾を認めないというわけではないんですね。中華人民共和国が「台湾は中国の一部である」ことを認めなさいというふうに日本に対して言った時に、日本はどういうふうに言ったかというと「中華人民共和国の言い分を理解して尊重する」って言ったんですよ。だから、これは非常に日本的な言い方なんですけども、理解して尊重するけど認めるとは言ってないっていう言い方なんですね。ただ理解して尊重するって言ったら相手はどうとるかっていうのはまた別のことだと思いますけども。 小林:そうですね。少し歴史が細かくなりましたので元へ戻りたいと思いますけど。 酒井:はい。 小林:なんで歴史的な話をしたかというと、映画の中で多くの台湾の人たちが「日本に捨てられた」というふうに言ってますね。それで、こういう日本と台湾の関係をひとつ踏まえてお話を聞きたいと思いましたので。 さて酒井監督は実に多彩な経歴の持ち主で、慶應大学を出られてから会社勤めをされた後、北海道新聞にお入りになるわけですよね、そこもちょっと変わってますけど函館支局に行かれたんですかね。 酒井:はい、函館に4年間勤務しました。 小林:そうですか。それでどうして映画の世界に入ろうと思ったんですか? 酒井:函館も長岡と同じで毎年映画祭が開かれているんですね。当時は「函館ロープウェイ映画祭」という名前で、今は「函館港イルミナシオン映画祭」といって12月上旬に毎年開かれています。私が函館に勤務した当時、映画祭というと、こういう風に映画を作った監督とかプロデューサーがいらっしゃって会場で映画ファンと交流をされるわけなんですけど、私は新聞記者としてそういう方たちに取材として話を聞く機会があったということです。それから函館という土地柄、年間何本も映画のロケがあるんですね。映画を作っている現場を取材するということもたくさんありまして、もともと映画ファンだったんですけれども、映画を作るという現場に触れたり、作る人たちと直接話したりということで、自分が映画作りに魅力を感じ始めたということで、なので函館にいた時に映画作りに目覚めました。 小林:そうでしたね。北海道新聞社を辞めて、東京で映画のワークショップにお入りになった。その辺の酒井さんの行動力というか、この映画のテーマへの向きあい方と非常に似ているなと思うんですね。そのなんていうか、酒井さんの生き方に強さがある。「台湾人生」の中で、とても成績優秀だった陳清香(チン・セイコー)さん、彼女は最後に自分のアイディンティティ(国などによる自己認識形成)について「解けない数学のようだ」というふうに言っておりましたけど、似ているものを感じます。 今回の映画を撮りに行く前に、台湾の映画を観てそれで現場に行ったと、その辺はちょっとミーハー的なところもあるんですか、どうなんですか? 酒井:そうですね。私が台湾に出会ったきっかけというのは蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)という映画監督の「愛情萬歳」という作品で、これは台北を舞台にして都会に暮らす若者の孤独みたいなものを描いた作品なんですけども、1998年に、たまたま友たちがビデオを貸してくれまして、それを見てどうしてもその舞台に、その映画に共感したというのが大きいですけども、その映画の舞台になっていた台北をぜひ自分の足で歩いてみたいと思って、それでフラッと一人で行ったのが一番最初の台湾体験なんです。 小林:そこでちょっとした体験があったということでしたね。 酒井:そうですね。全く意識はしてなかったのですけども、あるバス停でバスを待っていたら一人のおじいちゃんがバス停の近くのお家から出てこられまして、遠くから私が日本人だっていうふうにわかったとおっしゃったんでんですけども、本当に流暢な日本語で「日本からお越しなんですか?」というふうに話しかけてきて下さったんですね。それで、まぁそうですというふうにお話しをしていたら、その方が当時たぶん70代の前半くらいの方だったと思うんですけども、「自分が子どもの時にすごく可愛がってくれた日本人の先生がいた」と、「その先生が日本の敗戦の時に日本へ引き揚げてしまって連絡先がわからなくなってもう会えていないんだけれども、僕は今でもその先生にすごく会いたいんだ」っていうことをバス停での立ち話だったのですけども滔々と語って下さって、当時戦後もう53年経ってたのですけども、子どもの時の先生のことを今でも思い続けてらっしゃる方が台湾にいることを初めて知って、そんな気持ちを持った方がいる台湾という国はいったいどんなところなんだというところから台湾に興味を改めて持ちまして、日本に戻って来てから、台湾のことをもっと知りたいと思って調べ始めました。 小林:そうですね。古い写真もたくさん見せていただいたんですけども、そのおじいさんにはその後会えなかったと聞いているんですけが。 酒井:会えてないんです。そうなんです。 小林:でも、この映画の中で終わりの方に出てきますが、宋定國(ソウ・テイコク)さんという方が、夜間中学に進学する時に、お金が無くてあきらめようと思って、恩師の小松原先生に言いに行きますが、5円ですか、当時の大金をポケットに突っこまれて「宋君、がんばりなさい!」って言われたという、あのシーンはやっぱりこの映画の中で一番思い出に残るところだと思います。全く似たような感じの人なんですけど、この人じゃないんですよね。宋さんは台湾に来た千葉県の学校の先生の一団に出会って、小松原先生の行方がわかり訪ねています。小松原先生は日本にもどっても千葉県で先生を続けておられたようですね。宋さんは先生の最期の病床にも付き添っています。 酒井:そうなんです、本当に。宋定國さんは毎年小松原先生のお墓参りをされているわけなんですけれども、実は決して特別な方ではなくて台湾からそうやって日本に恩師の方のお墓参りをしに来られる方はたくさんいらっしゃいますし、恩師がまだ90歳、100歳でお元気な場合は会いに来られている方はたくさんいらっしゃいます。 ただ、どうして私はこういう宋さんみたいな方に出てもらったかと言いますと、植民地統治というのは絶対にあってはならないものだと私は思っているんですけれども、そういう時代の中でも「人と人との繋がり」がきちんとそこにあったと、だからこそ、そういう宋さんがお墓参りを今でも続けてらっしゃるという行為に結びつくんだと思うんですね。だからその「人と人との繋がり」みたいなものが、かつてやっぱりあったんだということを撮りたいと思ったんです。 一方で実は、今回映画には出ていただけなかったんですけれども、同じような世代の方で、当時、中学生で太平洋戦争が始まってという時代ですが、ある日先生から呼び出されたそうなんですね。その方が先生から「特攻隊に志願しないか」っていうふうに言われたそうなんです。本人はびっくりしてしまって「今即答できないので父に相談してからお返事をしたいです」とお答えしたら、後日先生が直接お家に来られて、お父さんが直接お話しされたそうなんですけども、私が話を伺った方は一家の三人兄弟の長男で、お父さんが先生に仰ったのは「この子は家の長男です」と、「次男三男だったら喜んで差し出すんですけれども、この子は家を継いでもらわなければならない子なんで、申し訳ありませんが戦争に行かせるわけにはいきません」と言ってお父さんがきっぱり先生に断ったそうなんです。「その親父の言葉で僕は今、生きてるんだよ」とお話し下さいました。 そのことがあった後日、同じクラスから突然二人がいなくなったそうなんですね。彼が知ったのは後からで「その二人は特攻隊に志願して二度と戻って来なかった」っていうことを、涙ながらにお話し下さったんです。やはり当時同じ教師の立場でも子どもたちを戦争に送り込む、送りこまなきゃいけないっていう人たちがいたこともまた事実なんだということを、もう一つお伝えしておきたいと思います。 (つづく) 第14回長岡アジア映画祭 2009年9月17日 「台湾人生」上映後 酒井充子監督×小林茂監督対談 「台湾人生」公式HP http://www.taiwan-jinsei.com/
2010.02.16
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今晩の上映企画室はとりあえず次回上映会の準備ということで宛名書き等、 あとファクス送信先をまとめたいので報道各社のリストの打ち込みを。 それとながおか市民センターから「はじめてのパワーポイント講座」のご案内が届いたので勉強のために参加しようかと話していました。 ただただ寒いです。
2010.02.15
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昨年の当映画祭で「台湾人生」の上映後に開いた酒井充子監督と小林茂監督の対談は『長岡アジア映画祭』の“アジア”と“映画祭”の部分に最も強くあてはまったものになったと思う充実した対談でした。 酒井監督の映画と台湾への想い、そこには一人の女性が仕事を通して映画に強く惹かれていくうちに、映画への道を志し、1本の映画との出会いから台湾へと導かれて、「台湾人生」が生まれていく過程が真摯に熱を込めて語られていました。 そして台湾と向き合うことはいつしか、この日本について深く考えることになったと語り、“台湾”を“アジアの映画”と言いかえれば当映画祭の趣旨のひとつにも大きく重なることに気づかされました。 もちろんそのお話を引き出していく小林監督の進行も素晴らしかったです。 現在、この素晴らしい対談をなんとか記録として残して当日の模様に触れてもらおうと思いテープ起こしをしています。 近日中にアップする予定ですがぜひ読んでいただけましたら。 酒井監督は映画への道を歩もうとする青年に「映画を愛する心を大切に!」とメッセージを送りましたが、これも目を覚まされました。
2010.02.14
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当会メンバーにはメルマガみたいなものをたまに送信しています。 先日はダイスケ君がスリランカで俳優を目指すことをお伝えし、 送別会のお誘いを流したらやはり反響がありました。 送別会では会場にモニターがあるので、 監督作「Brack White Red」を上映しようかとも企画しています。 より盛り上がるのではないかと。 当映画祭で上映したスリランカの映画といえば、 “第4回”で上映した「満月の日の死」。 NHKが出資した民族の生き様を力強く描き伝えた文芸映画でした。 ダイスケ君によるとスリランカの娯楽映画はインド映画の影響下にあるそうで、 数年後にダイスケ君が歌い踊るスリランカ映画が上陸することを夢想します。 発売中の「週刊新潮」で長岡に深い縁のある櫻井よしこ先生の連載に 現在、ハイチ大地震の救助活動をしてる自衛隊を守っているのは スリランカ軍だと書いてありました。 ダイスケ君がメンバーでなければ頭に残らなかった記事かもしれず、 意外なところでスリランカの人達が日本人を守っていることに関心を抱きました。 ダイスケ君はぜひ映画を通して日本とスリランカの橋渡しも期待したいです。 「満月の日の死」 1997年/カラー/75分/スリランカ・日本合作 監督 プラサンナ・ヴィターナゲー 出演 ジョー・アベーウィックラマ 英題 DEATH ON A FULL MOON DAY NHK国際共同製作作品 民族紛争の中、息子の戦死を信じない老人を通し懸命に生き方を模索する人々と人間の尊厳を描く。 日本人は戦争の悲惨さを知ってるだけに共感して下さると信じてると、監督は語る。
2010.02.13
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今晩のミーティングは次回上映作について各映画賞の結果や行方を見て急遽浮上した候補作について討論しながら、とりあえず候補に挙がった作品の料金・スケジュールなどを検討していました。 その他に2、3ほど議案や報告など。 寒さはまだまだ続きますが、もういいかげん陽が差してほしいものです。
2010.02.12
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当会にご協力をいただいてる方が汗を流してる長岡の演劇祭『シアターゴーイング』が今年も開かれるのでご紹介します。 13回目の今回は2月20日より“愛”をテーマにリリックホールで開催されます。 ◆劇団空志童「夜の虹」作/今井明 演出/笠原由紀子 日時:①2/20(土)13:00‐第1スタジオ ②2/20(土)17:00‐第1スタジオ ◆ゆでたまごの会「あいすまん」作/田中みゆき 演出/井上ほーりん 日時:①2/20(土)15:00-シアター特設ステージ ②2/21(日)15:00-シアター特設ステージ ◆Area-Zero「14歳の国」作/宮沢章夫 演出/広瀬珠実 日時:①2月20日(土)13:00-第1スタジオ ②2月21日(日) 17:00-第1スタジオ ◆平成ぽこ「似たもの同士の愛について」作/山日達朗 演出/平成ぽこ 日時:①2/27(土)14:00-第1スタジオ ②2/28(日)13:00-第1スタジオ ◆ジョイントアクションクラブ演劇部「鞠男兄弟」作/岩崎立裕 演出/岩崎立裕 日時:①2/27(土)19:00-シアター特設ステージ ②2/28(日)17:00-シアター特設ステージ ☆チケット料金:全席自由 ☆1公演券:1000円(当日200円増し)/フリーパス券:2000円(限定30枚) ☆「ワンモアチケット」:ワンモアチケットは、1公演券の半券+500円で他公演もご覧いただけるお得な制度です。 公演当日に受付にてチケットの半券をご提示ください。 ☆発売日・取り扱い場所 ☆チケット一般発売日:2010年12月10日(木)より ☆取り扱い場所:長岡リリックホール ☆チケットご購入に当たっての諸注意:長岡リリックホールでは、チケットの窓口販売の他に郵送(有料)によるチケット販売も承ります。 小学校入学前のお子様はご入場できません。小学生以上の方はチケットが必要です。 ご予約・ご購入いただいたチケットのキャンセル・変更は出来ません。 車椅子席をご希望の方は、長岡リリックホールにご連絡ください。 公式HP http://theatergoing.web.fc2.com/
2010.02.11
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「モノクロームの少女」の大阪での公開が決定したようです。 もちろん関西は初公開になりますので、特に故郷が新潟県という方はぜひ足を運んでいただけましたら。 美しい風景の中で繰り広げられるピュアな恋物語は故郷の美しい想い出が浮かびあがることと思います。 劇場 シネ・ヌーヴォX HP http://www.cinenouveau.com/ 上映期間 2月20日~3月4日 また2月13日の“とちお遊雪まつり”での「モノクロームの少女」上映には五藤利弘監督も立ち会うそうなので、見かけましたらぜひ声をかけて感想をお伝えください。http://tsukurukai.blog103.fc2.com/blog-entry-728.html
2010.02.10
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昨晩の上映企画室は台湾出身のメンバーが旧正月に帰省するというので賑やかにワイワイとやっておりました。 どんどん台湾の写真を撮ってきて戻ってきたら見せていただけないかと。 また初対面同士をご紹介したりしていたので今後に繋がっていけば。 ダイスケくんの「Brack White Red」には当会メンバーも出演したので観た人、参加した人で感想を述べておりました。 観た人の間ではやはり評価は高かったです。 あとあと2月の長岡名物シュークリームを皆さんで食べておりました。 まだまだ寒いですがちょっと日射しも感じられました。ちょっとですが。
2010.02.09
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長岡造形大学で教鞭を取りながら、“防災のスペシャリスト”として活躍し中越大震災では復旧・復興計画の指揮など多大な貢献。 映画「1000年の山古志」ではアドバイザーとしても活躍した平井邦彦先生が今年度、退職をするのでその最終講義に“偽学生”として潜り込みました。 講義はテキストとして配られた1596年からの主な災害とその年の世相を収めた年表をもとに、これまでの活動を振り返るもの。 最初に遭遇した1970年の“大阪天六ガス爆発”とその次に起きた1972年の“千日デパート火災”の調査で目にした惨状が防災の道を歩む方向性を決定づけて以後、“酒田大火”(76)“宮城県沖地震”(78)“日本海中部地震”(83)、“雲仙普賢岳火砕流”(91)“北海道南西沖地震”(93)そして“阪神・淡路大震災”(94)と実際に現場に足を運び調査をしたナマの報告はそのまま日本の大災害の歴史と重なり圧巻でした。 もちろん国内にとどまらず“マナグァ大地震”(72)、“台湾大地震”(99)、そして“四川大地震”(08)とおそらく活動の一部なのでしょうが海外の被災地にも足を運んでの調査・研究も行い、各地の連携とコーディネーターとして度々シンポジウムの場を設け、国や行政に積極的に防災と復興の役割りを説いた活動・実績は改めて大きな称賛を重ねても足りないほどだと思いました。 そして2005年の“7,13水害”から“中越大震災”“中越沖地震”(08)には造形大の生徒ともに現地に赴き精力的に調査を実施し、復興計画の青写真を示して行政や組織と協議を重ねて、自然災害に打ちのめされた中越を復興へと導いたことはこの地に欠かせない識者の一人だと言えることと思います。 講義の中で自負していた行政と被災者の間を繋ぐ中間支援組織が互いに協働で復興を目指していくモデルは中越が最先端との話は当然、平井先生が深く関っている筈でこれはこれからも活動が続いてくと思います。 その90分に及んだ講義のなかで時代の転機として大平正芳首相が亡くなってからは「政治が学問に敬意を払わなくなった」ことを挙げて、温和で飄々とした顔が毅然となって鋭く言い切ったのは強く印象に残りました。 もちろんお堅い話ばかりでなく時にユーモアを交えて広島カープへの愛着や、なぜか平和台⇔桜田門のゾロ目切符収集に情熱を注ぎ、次は「平成33年3月3日」と話す姿にしばし笑いが漏れて生徒から愛されていることが想像できました。 昨年の映画祭では平井先生には同じく造形大の澤田雅浩先生と「1000年の山古志」上映後に解説をお願いしていただきましたが、その以前は台湾大地震を記録したドキュメンタリー集団『全景』の作品上映に何度かお話ししていただきました。 中でも“第12回”の「天下第一の家」の上映後には澤田先生、新潟大学の福留邦洋先生と共に鼎談をしていただきました。 『全景』の作品群の中では見劣りすると思った「天下第一の家」が防災のスペシャリスト3人の目から見ると被災状況、復興への道程、行政との関り、被災者支援、都市建築、信仰、台湾と中越の共有と違いなど様々な角度から解説を重ねて深い指摘や発言がありました。 聴講していて三人から発せられるやりとりが次第に熱を帯び凄いモノを見てると実感し、まさにただただ圧巻でした。 鼎談後のその日の反省会で客席にいた映画祭実行委員から「あれは凄かった」と感想が漏れるほどで、映画祭の歴史の中でも特筆される出来事だったと思います。 平井先生は退職後は山古志に居を定め「山の学校」の校長として山古志と都市との連携を繋ぎ、山古志の人々とともに生きて行き、今後も更なる活躍が期待されることと思います。http://www.nodakita-furusato.net/modules/paperdome8/content/pdf/080325paperdome1.pdf 平井先生、お疲れさまでしたとありがとうございましたと、またご協力をお願いします。 「山の学校」に遊びに行きたいと伝えたら「ぜひぜひ」と言われたので楽しみにしたいです。 それにしても件名はこの日の講義名ですが災害を「創造」と言うのは、多くの現場を目にし到達した上でのことだと思い深いものを覚えました。
2010.02.08
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当会の新年会が“串屋 和蔵”で開かれました。 食べ放題、飲み放題コースなので皆さん話に熱くなり、おなかいっぱいでべろんべろんとなりました。 食べ放題の串焼きはホルモン系が味わい深く、どんどん焼いてもらおうと思ってたらダメ押しのごとく焼きそばがたんまりと出てきたので驚き、飲み放題メニューでは“電気ブラン”が注目の的となりました。 あと中盤に登場したボリュームたっぷりのローストポーク(というのか)は舌のこえたメンバーも称賛でした。 この値段でこんなに出てきて凄いね、と。 この日はストーンズがBGMで終始流れてましたが、壁には「シャイン・ア・ライト」のポスターが今も貼っているご主人の心意気が嬉しかったです。 帰省中の東京特派員も参加したので、その経歴が話題となりましたが、今の勤め先が原宿のショップでなく銀座のメンズスーツのお店で働いてることが発覚し、スーツ一着の値段がさすが銀座だと口々に言い合っておりました。
2010.02.07
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当会事務所でも撮影された菊原大資くんの「Brack White Red」が長岡造形大学卒業展で上映されてるので足を運びました。 「Brack White Red」は一人の殺し屋が抱く友情と愛情をシャープな映像に饒舌なモノローグを絡めて有無を言わせないテンポで一気呵成に描き切った作品。 冒頭のタイトルバックから目を見張らせた他、ヒロインの赤い姿がモノクロの映像や雪上に映える色彩も印象深く予想以上に見応えがあり驚きました。 肝心の当会事務所のシーンもいつも見慣れた台所がすっかり映画の色に染まっていたのも新鮮でした。 もちろんこのシーンに仲間たちが力を合わせて撮影をしていたのを見学してただけに思い入れも深かったりしますが。 今回は7分ほどの作品でしたが、今度は30分程、いづれは長編にもぜひチャレンジをと期待しました。 最もダイスケくんは卒業後、スカウトされたスリランカで俳優を目指すそうですが、映画も併せて撮り続けて欲しいと。 またこの日、上映された作品を全て見ましたが“長岡インディーズムービーコンペティション”の予備審査を通過するレベルの作品が何本もあると感じたのでぜひ、次の機に応募してほしいと思いました。 長岡造形大学の卒業展は2月9日まで開催されてます。http://www.nagaoka-id.ac.jp/gwe2010/
2010.02.06
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本日のミーティング前にまず原宿のショップで働いていて帰省中の東京特派員と “すくらんぶる”編集長がおちあって互いの近況報告を話しておりました。 連絡先を交換しあってましたが当会で出会って繋がれと。 名前に反して映画館はつくれない会ですが、 当会で出会って仲間をつくってほしいと思うのが今となっては本心からの心情になってます。 その後は次回上映作の候補作について紹介にまわるにはどうすればいいか、 ストーリーの細部まで話しこんで様々な角度から検討しリストアップしていくこと、 また候補作について様々な人に会って意見に耳を傾けていこうと。 他の議題はへたり込んでしまいましたが。 寒さはますます厳しくなっていくようです。
2010.02.05
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「高校の部室みたいですね」 最近当会に参加した新メンバーはこちらの思惑とは裏腹に熱心に作業をして下さいました。 こちらの思惑とはやはり良く言って不思議、悪く言えばあやしい当会の雰囲気に馴染んでいただけるだろうかと。 細長い急な階段を4階まで歩いて上り、まさに未知の扉を開いてどのような感想を持ったのか気になってましたが、 幸いなことに理解をいただいたようで、事務所の様子を見て発した軽口が冒頭の言葉。 これでも以前よりは綺麗になったとはいえ確かに得体の知れないものが転がったりと,雑然とした事務所は他にも大学の映研の部室のようだと言われたこともあります。 当会の事務所は発足当時は通りを挟んだ長岡書房の2階に構えていましたが、建物が取り壊されるために現在のスズランビル4階に資料を読むと平成3年12月に引っ越したようです。 一体どのような経緯でスズランビルが選ばれたのかはよくわからないのですが、旧事務所があった場所にはその後、かに道楽がビルを構えたもののそれも撤退し、現在はカラオケ店となっています。 ともかく以後、中越大震災では短時間に3度も襲った震度6の大地震やその後の大きな余震も3年後の中越沖地震にも耐え(さすがに事務所内はハチャメチャになりましたが)、扉の前は雨漏りがしたりしますが現在に至っています。 この間に事務所を訪れた映画人は佐藤忠男先生をはじめ神山征二郎監督、呉美保監督、柴田昌平監督、早川由美子監督、俳優の三浦景虎さん等。 もちろん小林茂監督、東條政利監督、五藤利弘監督といった長岡の映画人もよく顔を出して歓談をしたりします。 ここでは普通に作業やミーティングを開いたりしているのですが、どうもこの事務所が極めて特殊な場ではないかと気づかされたのが4年前に研修で訪れた伊参スタジオ映画祭の実行委員の様子を見た時でした。 総勢15人程でやってきた皆さんは事務所に入るなり歓声を挙げて中を見回したり、カメラを取り出したりとその姿にこちらも驚いたりしていました。 以後、映画祭のゲストや遠方からのお客様で時間があったら積極的にこの事務所をご案内したりします。 確かに映画人のサイン入りポスターやチラシ、色紙が覆い尽くしたりする様は映画好きな方は喜ぶ筈ですし、中でも掲げてある宮崎駿監督が以前、当会に送ってくださったメッセージには長岡がルーツと思わせるようなことが触れてあり今となっては貴重な代物に思います、コピーですが。 そんなこともあり台湾出身のメンバーが今度、ご両親を長岡に招待するのでどこを案内したらいいかという話になった時、すかさず「事務所」をおススメしましたが、その場の皆さんから冗談と思われて笑われてしまったのは幾分心外でありました。 映画好きな方が長岡を訪れる機会がありましたら駅近くの当会事務所に足を運ぶのも一興かと思ったりします、その際は事前にご一報を!
2010.02.03
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本日の新潟日報で石坂健治氏が寄稿していましたが、 昨年、惜しくもまだ若くして亡くなったマレーシア映画の旗手ヤスミン・アハマド監督の“オーキッド4部作”が2月20日~2月26日シネ・ウインドで公開されます。 上映作「ラブン」「グブラ」「細い目」「ムクシン」の4本はイスラム教徒の女の子“オーキッド”が家族から大きな愛情を注がれながら、恋愛を重ね成長していく物語。 まだ未知の国という印象の強いマレーシアが大変身近に感じられた作品群でにいがた国際映画祭や長岡アジア映画祭でも何本か上映されとても評判を得ています。 今回は新潟県初公開となる「ラブン」を含めた貴重な一挙4本公開となるのでこの機会にぜひとも。 昨年の当映画祭では「細い目」を上映後、羽賀友信長岡市国際交流センター長と長岡技術科学大学のマレーシアからの留学生との鼎談を行いとても好評でした。 またの機にこちらでも紹介したいと思います。 シネ・ウインド公式HP http://www.wingz.co.jp/cinewind/
2010.02.02
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今晩の上映企画室は新しく参加された方に報道各社の住所録の打ち込みをお願いしていました。 以前から使ってるのはだいぶ前のもので、 住所変更された社もあるので調べながら打ち込みをお願いしていました。 と、同時に観てみたいという新作があったので、 どの点に惹かれるのか聞いてみたりと、雑談をしながら。 あと昨年の東京スポーツ映画大賞授賞式で事務局長が 是枝裕和監督に賞状を授与するシーンを録画したDVDを見せたりしていました。 他にチラシのまとめやポスターをお願いする個所も新しく見直しなど。 しかし寒い日はまだまだ続きそうです。
2010.02.01
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